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● GALA(C翼)●

 もともと彼は、大人数のなかでずっと暮らしてきた。
 兄弟は、兄・姉・妹とそろっていたし、加えて両親のほか、実家が空手道場なんぞをやっている手前出入りする門弟の数はいい加減覚えるのも面倒なほどだった。
 中学からはそんな家を離れたが、こちらも寮暮らしの団体生活だったし、それは大学に入るまで続いた。
 都合、生まれてこの方、人生のほとんどを人に囲まれて暮らしてきたわけだが、そのわりには一人暮らしにも彼はとっとと慣れて、およそ寂しいだとか人恋しいだとかは思ったこともなかった。それは、ずっと一緒にいた熱量の高い人間が海の彼方へ球蹴りに行ってしまった時も同様だった。
 同様だと、思っていた。
 彼―――若島津健が、日向小次郎の不在が自分に及ぼした影響を自覚するまでには、二年の月日がかかったのである。
 これも随分な話であった。



 日向と若島津は、どう言ってみても普通の『親友』だとかの分類に入るような付き合いはしていなかった。
 だからといって、自分たちをどういう関係だと聞かれて答えられる自信も若島津にはなかった。ただ、ずいぶんと気楽な存在だとお互いを認識していたのは間違いではなさそうだ。
 ずっと一緒にいても、あきなかったし、おもしろかったし、手強かったし、大事だった。
 張り合うことに関しては、お互いぜんぜん楽させてもらえなかったが、ケンカにしろサッカーにしろ、小学校卒業くらいまでは相手だけが唯一対等に張り合える存在だったのだ。
 自分より大事かと聞かれて考え込んでしまうくらいなヤツというものはなかなかいる訳はないのに、若島津も日向も、ほんの軽い調子で誰かが投げたその質問に、一晩中考えこんでしまったことがあった。
 日向の答えは聞かなかったので、若島津は知らない。
 若島津は、面倒くさくなって途中で考えるのをやめてしまった。
 たぶん、それが中等部のころ。
 その頃から、日向は少し変わった。
 すこし、無口になった。
 口には出さないけれどいろんな事を考え始めているようで、行動が静かになったぶん無駄がなくなった。
 よく笑ってバカ騒ぎもしたが、目に見えて大人びていった。
 もともと誰よりも力強いと言われていたけれども、この頃にはすごい内圧をかけて押し込めている『力』が見えるようで、認めると腹が立つので誰も言わなかったが、なんだかずいぶんとイイ男に日向はなっていったのだった。
 高等部時代は、実際東邦学園に対抗できるチームも少なくなり、主将の日向はサッカー雑誌等にはまるでトップスターのように取り沙汰された。
 その頃には小学校時代の荒くれ者はどこへやら、ひそかにまたはおおやけに、もともと女の子にウケの良かった若島津や反町と並んでファンクラブまでつくられてしまうような男になっていたが、紳士的になったともっぱら噂の猛虎は、周囲の視線などどこ吹く風と飄々としていた。
 反町たちがぎゃあぎゃあとやっかむ中、若島津はべつに日向の性格が基本的に様変わりしてしまったわけでもないしいつものように一緒にいるしとのほほんとしていたが、まあいい男になったのはほんとうだなぁと思ってはいたので、ある日めずらしくオフでごろごろしている日向を見つけたおり、誰も言ってやらないみたいなのであんたほんとうにいい男になりましたねとほめてやった。
 ……ほんの軽い気持ちで言ったこのひと言を、そのあと若島津は言わなきゃよかったと後悔した。
 腹筋だけで上半身を起こした日向は、そうか?と気のないような返事をしたあと、にやっとそれこそ人食い虎のように笑ってみせて爆弾発言をしたのである。
「そりゃよかった。じゃあもうおまえを口説いてもいいな?」
「―――はい?」
 のっそり立ち上がった猛虎は、どこをどう見ても紳士的には見えなかった。
 なんとはなしに後ずさりしてしまった若島津は、最初訳がわからず、次にパニックを起こし思考を停止してしまい、そうこうしているあいだに日向に遅いのか早いのかわからないファースト・キスを奪われてしまった。
 好きだとかなんとか赤面モノのセリフを聞いたような気がしたが、過負荷でキレてしまった若島津は呆然とした表情で、ずいぶんやさしげな目をした日向を見上げた。
 はめられた。
 あの時からこっち、こいつはこんなことを隠していたのかと後になって思い当たったが時すでに遅く、若島津の目の前には、荒くれ者の小学生でも猪突猛進の猛虎でもなく、腹が立つくらいにかっこよくなってしまった、だが、あいかわらず大事な日向がいたのだった。
 詐欺だ。こんな日向にかなうわけがない。
 日向はあのとき、答えを見つけていたのだ。
 見つけていたくせに、こっそりひとりで若島津にも教えずに黙っていたのだ。
 おおよそ今までと変わらないくせに、でも時にあきらかに確固たる目的を持つ頑固さと意外なほどの誠実さで、日向は若島津を『口説き』始めた。
 一歩先んじられた若島津に勝ち目はあまりなかったし、日向の手も目も若島津に嘘をつかせなかった。
 そう長く待たずに、あたりまえのように日向は若島津の答えを手に入れたのだった。

 だが、だからといって毎日顔を見ないと不安だとかそんなことはなくて、ふたりは結構淡々とそれからも変わらない毎日を過ごした。
 離れたくらいで不安になるとは思いもしなかったから、大学入学と同時に日向のイタリア留学が決まった時も若島津は平然としていた。高等部卒業と同時に寮を出て、ひとり暮らしを始めて、そうしてそのまま二年の時間が過ぎたのである。



 若島津が閉口しはじめたのは、日向が発ってから足掛け三年目の夏の初めだった。
 今年の夏は、前年の冷夏とはうってかわって気温が高く、暑い夏はなんだかいやに日向を思わせた。
 最初は、ほんの短い時間日向を思い出した。
 毎日だんだんその時間が長くなり、八月も半ばを過ぎようとする頃には、若島津は自分でもびっくりするほど日向のことを気にするようになっていた。
 会いたい、と。
 たとえ日向相手であろうが自分がそんなことを思っていることを自覚したとき、若島津はほとんど天変地異なみのショックをうけ、いじけるあまりその日の講義をサボってしまった。この年末の帰国を前に日向は忙しいらしく、この半年は音沙汰もない。丸一年以上会っていなかったのも確かだが、まさか自分がこんなに情けないことになろうとは思ってもみなかったのだ。
 3時間うなって、その後開き直り、好きだとかなんだとか言いながら顔も見せない日向が悪いと若島津が責任転嫁を始めたころ、電話のベルが鳴った。
「ああ、若島津君? 小泉ですけど」
「……はい」
 電話の主は東邦学園の現理事職にある女性で、人には言えない理由で講義をサボっている学生にはありがたくない相手だが、素直に受話器を取ってしまった後ではもう居留守を使う訳にもいかず、若島津はこれまた素直に返事をした。
「日向くん、そっちにいる?」
「はい?」
 ずいぶん的外れな問いかけを聞いたような気がして、若島津はもう一度質問をうながした。日向がイタリアにいることを小泉が知らないはずがないのだ。
「そっちにはいないのね?」
 もう一度繰り返した問いにも若島津が反応を見せないのに気づくと、小泉は今度はそう念を押した。
「日向さんは、イタリアでしょ?」
 怪訝そうに若島津はそう聞き返した。それに小泉の明朗な答えが返ってくる。
「彼、何日か前にオフをもらったらしくてね、今イタリアにはいないらしいのよ。だったらあなたのところにいるのかなと思ったんだけど」
「?」
「ま、いいわ。連絡があったりそこに顔出したりしたら、私に教えてちょうだいね。じゃあね」
 しばらく若島津は切れた受話器を持ってあっけにとられていたが、その手ですぐに緊急事にしか連絡したことのないイタリアの日向の連絡先に電話をかけた。
 少しの間をおいて電話に出た相手は、片言の英語でこう教えてくれたのだった。
 いわく、日向は一昨日から2週間のオフをもらってイギリスへ行った。
 礼を言って静かに受話器を置いた若島津は、ふつふつと怒りが沸き上がってくるのを無表情なままで自覚した。
 八つ当たりだとわかっている。
 そんなこと誰に言われなくても十分わかっていたが、あまりのタイミングの悪さに腹が立つ。これがひと月前なら何とも思わなかっただろうに。
「……休み取れたんなら、さっさと日本に帰ってこんかいあのはぐれ虎め」
 怒鳴るとよけい怒りに拍車をかけそうなのでぼそっとそれだけつぶやいて、若島津はなんだかめり込んでしまった気分を変えるために、遅ればせながら講義にでも出るかと立ち上がった。
 講義の後、部の方で反町相手に100本もシュート練習でもすればうさも晴れるだろうと考えている若島津には、すでに反町の迷惑は思考の外である。ちょっとでも気を緩めると怒りがそのまま情けなさに移行しそうで、若島津はぜんぶ日向が悪いと頭の中で繰り返している。
 ぶつぶつと半ばヤケになって怒り続けていた若島津は、玄関のチャイムが鳴る音に4回目で気づいた。
「はい」
 不機嫌そうな仏頂面でドアを開けた若島津の目の前に、怒りの原因が突っ立っていた。びっくりしたように若島津を見ている。
「日向さん…?」
「ひさしぶりだな、若島津」
 ラフなスーツなんぞを着て、にっこりと白い歯を見せてうれしそうに笑っている男は、間違いなく日向小次郎だった。
「―――あんたイギリスに行ってたんじゃないんですか」
「ああ、15時間前にはヒースロー空港にいたぞ。おまえなんで知ってるんだ?」
 後ろに下がって日向を中に入れてやりながら、若島津は頭の中で時間計算をしてみた。日本―イギリスが直行便で13時間ほど。日向は一昨日から休暇だと言っていたから、それこそイギリスからはトンボ帰りで日本に帰ってきたことになる。
「あんた、イギリスになにしに行ったんです」
「りんごとソルト&ビネガーのポテトチップスと紅茶を買いに」
「はぁ?! なに突飛なことしてんですか!」
「おまえ、食いたいって言ってただろう」
 荷物を置いて振り返った日向が、あまりにも当然そうにそう返したので、若島津は一瞬それこそ豆鉄砲を食らったはとのような表情をした。
 確かに4年ほど前にお家事情でイギリスに行って帰ってきたとき、コックスというりんごと、パディントン駅に売っていたソルト&ビネガーのポテトチップスがおいしくって日本にないのが残念だという話と、紅茶があまりにも安くて向こうの金額を知ると日本で買うのがバカらしくなるという話はしたような気がする。したような気はするが、それを覚えていたために日向はトンボ帰りのイギリス行きを敢行したのだろうか。
「ほかにどんな理由があるんだよ。俺は別に赤黒の兵隊さんが1時間も2時間もかけて行進するところなんぞ見たくもねえぞ」
 恐る恐る聞いてみたらあっさりそう返されて、若島津は絶句した。
 とんでもない、なに考えてるんだこいつと批判めいたことを思っているわりには、顔には正直に朱が上がってきている。
 日向はかばんの中から件のポテトチップスとりんごを取り出している。確かにそれは若島津が言っていたとおりの品物だった。
「あんた…植物検疫……」
「金属でもないのに手持ちの荷物まで開けて見ねえよ。紅茶は重いから航空便で送ったからな。10日くらいで着くらしいぞ」
 ほんとにとんでもない。
 よりにもよって今、こんなのに側に居られたらこの男のことしか考えられなくなる。
「―――どうした?」
「困る」
「ああ?」
「こまるよ、あんた―――こんな、あんたのことだけで頭がいっぱいになったら困る。俺今ちょっとおかしいから、ごめん、出てってくれないか」
 会いたかったけど、会ってしまったら歯止めが利かなくなる。
 こんなに好きだったなんて初めて知った。
 一番叶ってほしいことが叶った時に、喜ぶより不安になる自分の貧乏性を、若島津はよく知っていた。
「なに言ってんだ、おまえは」
 妙にじたばたしている若島津の腕をつかまえて自分の真っ正面に座らせ、日向はそれからいつかのようににやっと笑ってみせた。場違いな話だが、しばらく見ないあいだにまたかっこよくなってしまった日向に、若島津は反町たちのやっかみもわかる気がすると思ってしまった。
 悔しくて腹が立つのだ。ちくしょう(怒)。

「それだけ俺に会いたかったってことだろう?」
 言い終わるか終わらないかで真っ赤になった若島津に張り飛ばされた日向は、それでもこりずに満面で笑いながら若島津をつかまえた。
「明日は俺の誕生日だぜ。おまえ、プレゼント代わりに一日そうして困ってろ」
「もう一生あんたの誕生日なんて祝ってやるかっ!」
 ちくしょう。なんてヤツだ。
 どたばたと大騒ぎをしながら、若島津も笑い転げていた。

 答えなんて言葉にしなくても知っている。
 そんな人間が側にいるなら、考えてみなくってもいいのだ。
 誰でもほんとうに大切なものは必ずわかるものだから。



 日向が休暇を終えてイタリアに帰って行った2日後に、若島津のもとにイギリスからの航空便が届いた。けっこう大きな段ボール箱の中には、紅茶の500グラム缶が8つ入っていた。
「いくら俺が紅茶好きでも、こんなに飲み尽くせるかよーっ!」
 若島津はパッキンの粒状になった発砲スチロールをかき分けながらわめいた。わめきながらも楽しそうだった。
 これがなくなる前に、日向は帰国してくる。
 今度は日向のほうに自分に会いたかったと言わせてやろうとひそかに決意しながら、若島津はそのための作戦を嬉々として考え始めた。


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